ハラスメントはCA不足ですべて説明できる

  • 2019-06-29
  • 2019-06-29
  • 仕事

こんにちは。ケーパパです。

 パワハラ、アカハラ、セクハラ、アルハラ、、、色々なハラスメントが社会問題として取り上げられるようになりました。

最近はTwitterのタイムラインに、アカハラに関するこのような記事も。https://togetter.com/li/1113100

 教わる側、教える側の両方を経験して言えることですが、あらゆるハラスメントは「PDCA」の「CA」が欠如していることに起因すると考えています。

PDCAサイクルとは

 品質管理や生産管理の現場で用いられる行動、思考の改善のための手法で、あらゆるビジネスにおいて応用されています。具体的には

Plan・・・これをしてみよう

Do ・・・実際に取り組んでみる、試してみる

Check・・・結果どうだったか検証する

Action・・・じゃあ次はこうしてみよう

Plan2・・・

 というように、「計画」「実行」「検証」「改善」を繰り返すことで仕事を改善していける、というものです。PDCAは終わることなく繰り返されますし、上記のようにAのあとに次のPが始まることになるので、PDCA「サイクル」と呼ばれ、PDCAを「回す」という表現が使われたりします。

何故CA不足なのか。ハラスメントが生じる際のPDCA

 冒頭の大学の件で言うと、そもそも教育者として論外に感じたのでここに当てはめるまでもないですが、一応後進の指導を目的としたPDCAを組み立てるとすると、以下のようになります。

〇例、「研究発表の指導について」

  • Plan・・・この点について指摘(指導)しよう
  • Do ・・・みんなの前で指摘した
  • Check・・・彼は大きく落ち込んだ。みんなの前であの言い方はよくなかったかもしれない
  • Action・・・伝え方を変えよう。次は個別に呼び出して指摘するようにしよう。

 「PDCAサイクル」なんて大げさな表現をしなくても、人に物を教えたり伝えたりするときには、必要に応じてあーでもないこーでもないと「試行錯誤」するはずなんです。本当に伝えたいのであれば。

 あらゆるハラスメントは、この「自分の行動に対する相手の反応を確かめない(そして改めない)」ことが原因だと思います。つまり、「CA」の欠如です。只々自分の想いによる行動を継続してしまう「PDPDPDPDPDPD…」の状態になっているわけです。

何故CAが欠如するのか

 それでは、何故CAが欠如してしまうのか、その原因について考察してみます。

自分の経験に基づいている

「本人は優秀」パターンです。何故できないのかわからない。

「俺たちの若いころは手取り足取り教えてもらったりはしなかった」

「俺は自分で課題を見つけて努力してきた」

など、自分はこうしてやってきたのだから、他のみんなも頑張ればいいのにと思っていて、自分の指導法が原因ではないと考えています。このような人の周りでは、本人は優秀なので指導法に対する否定的な意見が表出しにくくなります。

「〇〇さんは優秀だからね」とか「みんなが〇〇さんみたいに上手くできるわけじゃないんだよ」と「一度褒めるニュアンスを与えてからの指摘」になってしまうので、指導法に対するダメ出しはされません。

「合う合わない」で片付けている

 自分の指導法で100人に1人も育てることが出来なければ、さすがに反省すると思います。「自分は指導に向いてないかもしれない」「自分の指導法には致命的な欠陥があるかもしれない」等。

 ただ多くの場合、それなりの割合で下の人は育ちます。自分の指導法に「合った」のかも知れませんし、下の人が優秀で、指導をどの程度受け入れたかはともかく、自分で学んで育ったのかも知れませんし。

 そのような成功体験が本人にはあるので、自分の指導法に対して一定の自信を持ちます。そして育たない人に対しては「自分と合わなかった」と、相性の問題である旨の結論を下します。

 自分に非はない、何故ならこれで育つ人もいるから、というロジックです。

指導する気がない(ついてこれる奴だけでいい)

 「背中を見て、盗め」パターンですが、勿論状況によっては成立します。与える側がカリスマだったり、需要過多の場合です。

 大学の研究室というのも、年度による差はあるものの毎年学部生は供給されますし、成果を出していれば大学院生の入りも急に途絶えることはないのでしょう(存続危機にあるような残念な大学は除く)。毎年入社希望が殺到するような大企業とかもそうですね。この人が駄目でも募集したらすぐ次が入るよ、という考え方ができます。

ですが、これはもはや指導ではありません。

 そちら側にいると、 需要と供給のバランスから考えて指導がおざなりになってしまうのはある意味仕方がありません。 仕組みとして、指導することを重要な仕事として位置付けることが出来ればいいのでしょうが、本人たちが出す成果(大学では研究成果、ビジネスでは利益)を超える優先度にはならないでしょう。

教える側として気を付けたいこと

本当に指導したいなら、「相性」に逃げるな

 本人に学ぶ気があることが前提ではありますが、やはり気を付けるべきはCA、つまり「自分の指導に対する反応を検証し、手を変え品を変えながら繰り返す」ことなのではないでしょうか。

 今現在、ある一人の部下に対して、正に「手を変え品を変え」て指導中(近日アップ予定)です。結構自分の時間を持っていかれて困ることもありますが、ある程度は投資、また指導法に関するノウハウを研究するいい機会だと割り切って取り組んでいます。

まとめ

 その人に合った伝え方、教え方はきっと存在します。どこまで応えられるかはわかりませんが、少なくとも同じ時間を過ごす人に対する最低限の配慮として、相手に合った伝え方を選ぶための「PDCAサイクル」を回すぐらいの気遣いはあってもいいのかなと思いました。