こてつと申します。
とある会社で研究開発の業務に携わっています。
私は仕事柄、いろんな実験の手順や機械の操作方法などを教わる機会が多く発生します。
もちろんせっかく時間を取って教えてもらう訳なので、無駄にならないようにきちんと話を聞きます。そしてなるべく何度も同じ質問をしないように必死に頭に叩き込もうとします。
そして無事に手順を覚えて、ちゃんと自分の仕事に生かせている事例が殆どです。
しかしたまに、教わった通りにやっても上手くいかないことがあります。一度だけなら自分の習熟度が足りないことが原因かもしれない、と思うのですが、何度やっても上手くいかない場合、みなさんならどう対応しますか?
私は以前、先輩から教わった手技をその通りやっても上手くいかなくて自分なりに改良を加えたところ上司に叱責されたことがあります。
その時に上司が出してきたのが「守破離」。それ以来、守破離という言葉が大嫌いです。
この記事では、守破離を盾にやりかたを押し付けてくる人がヤバい理由をまとめたいと思います。今となっては教える側に回ることが多くなったので、こうならないように気をつけたいなと思います。
新しい実験手技を教わったときの話
数年前のことですが、職場の先輩にある実験操作を教えてもらうことになりました。上司に相談すると、「その操作なら○○君が詳しいと思うよ」と紹介してもらったからです。
当時、その先輩は私が教わろうとしている実験を動かしている状態ではありませんでした。教えてあげて、と言われて数年ぶりに取り組む、と言った状態です。
予定を合わせて教わることになりました。
実際にやりたいこと全てを教わろうとすると丸3日はかかりました。また一方で、手順書は残っていてその多くは書いてある通りにやればできそうだと思いました。
なのでその先輩とも相談の上、一連の手順の中でも技術的に難しそうなところ、今後練習が必要になるであろう所にポイントを絞ってやり方を見せてもらうことにしました。
ここで教わったことを基本として、実際に実験データを取得しに行くのですが、この考え方がそもそも上司のお気に召さなかったようです。
「3日間全ての作業を付きっ切りで教わって、100%○○君の言う通りのものを覚えてこい」というのです。「物事を教わる際には『守破離』というのがあってだな・・・」と。
私からすると理解不能です。
守破離とは?
守破離(「しゅはり」と読みます)という言葉を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。もとは茶道や芸事に関する用語だそうです。
その言葉の意味をWikipediaより引用します。
守破離(しゅはり)は、日本の茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方の一つであり、それらの修業における過程を示したもの。
日本において芸事の文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想で、そのプロセスを「守」「破」「離」の3段階で表している。
守:師匠から教わった型を徹底的に守る
破:師匠以外の型も研究し、既存の型を破る
離:さらに修行を積み、両方の型に精通することで離れる⇒新流派の誕生(Wikipedia)
このように、「まずは教わったことがちゃんとできるようになってからアレンジしなさいよ」というのがその趣旨です。
芸事における師匠と弟子の関係ですから、「師匠の言う教えを守ってそれをできるようになってから自己流を出しなさい」というのも納得できます。
そりゃそうだよな、と思います。
守破離を仕事で出してきた上司に感じた違和感
今回の件で「守破離」を持ち出してきた上司に感じた違和感は以下の3点です。
- 自分が薦めた先輩への信頼が厚すぎ
- 試行錯誤に対する理解がなかった
- 結果を出しても認めなかった
順に説明します。
自分が薦めた先輩への信頼が厚すぎ
「○○君が詳しい」として話を聞くよう勧められた先輩(上司からすると愛弟子?のような存在)ですが、実際はいうほどその実験について全てを極めたような人ではありませんでした。
もちろん実験操作については覚えていて、残された手順書を見て「あーそういえばこんなことやってたね」とか「ここが難しかったと思うから気をつけてね」など、比較的丁寧に教えていただきました。この先輩はめっちゃいい人でした。
でも、「細かいところのチューニングは自分でやってね」という感じで、安定した結果が出せるようになるまで付き添ってもらうような教わり方はしませんでした。実験系の最適化やトラブルシューティングにまで立ち会ってもらわず、そこは自分でやりました。
そのことを上司にも伝えたのですが、「最初に○○君に教わった通りにちゃんとやれ」以外のことを言われなかったんですね。
もちろん丁寧に教えていただきましたし、その先輩には感謝しかありませんし、技術を教わった以上「師匠」にあたるのかもしれません。
ですが、「守破離」を適用するほどの関係なのか?と言われると違和感があります。
師匠と弟子の関係でいうなら、師匠が「表面的なことは伝えるから、あとは自分でどうぞ」というスタンスなので、私の方がよっぽど師匠の言うこと守ろうとしてますけど?
愛弟子が好きすぎて、少しでも外れたことを認めない感じが不愉快でした。
試行錯誤に対する理解がなかった
先輩に一通り技術を教わって、それぞれの操作の意味を理解することが出来ました。今の業務と違うのに丁寧に教えてくれた先輩には本当に感謝です。
その後数週間ぐらい?は、先ほどの上司の言葉通りとりあえずは教わったままの手技を練習していました。細かい条件は変えながら最もいい反応が得られる条件を探していました。加えて、もちろんその手技に対する原理も自分で勉強していました。
それらを全て合わせて試行錯誤していた結果、どうしても一部の手順を変えたくなったんですよね。
「今のままだと70点(イメージです)は取れる。でもこっちの方が技術的に簡単でもっと上を目指せるな」という当時の自分なりの確信がありました。
そこで、チーム内のミーティングでその変更を加える提案をしてみたんですよね。
そうすると「手を加えるのはまだ早い」「今70点しか取れないのは練習が足りないからだ。もっと丁寧にやれ」と、一度も私の実験の様子を見ていない上司から叱責されました。
「まだ早い」って何?いつになったら早くないの?
1日やって諦めたのならまだしも、それなりに経験積みましたけど、、、
それに当時とは器具や実験設備などが少し異なっていて、完全に同じ状況で実験をしていたわけではありません。そこを補う上でも試行錯誤は必要だと思うのですが、、、
上司とケンカする勇気はなく、とりあえずは引き下がらざるを得ませんでした。
結果を出しても認めなかった
さらに時が過ぎ、どうしても手順の変更をやってみたかった私は勝手に実験操作に手を加えます。そして目論見通り、結果が改善しました。
手順を変えたことは当然伝えて、それと合わせて新たに取得したデータを発表すると、上司の顔が分かりやすく曇りました。
曰く「自己流で取ったデータは認めない」とのこと。
私の実験データは「訳のわからない自己流で取得した信頼のおけないデータ」と扱われ、それ以上の議論を認められませんでした。
その時実験を手伝ってくれていた後輩には「こいつの手技は信用してはいけない」と言われる始末。
ただただ悲しかったです。それ以降「守破離」と聞いただけでこの当時のやりとりを思い出して腹が立ちます。
※その後、この時私が取得したデータが上司の書いた論文にしれっと載っていました。
まとめ
教わる際に、教えてくれた方への感謝や敬意を表すことは非常に大切だと思います。
今回で言うなら、手技を教えてくれた先輩への感謝は常に表してきたつもりです。
ただ一方で、その先輩につきっきりで、結果を出すまで隣にいてもらうというのは、私が好まないということもありましたが、先輩の負担にもなるため遠慮しました。
「教わる」となったときの形のイメージがここで上司と異なっていたわけです。
この「教わり方」について自分の考えと異なる動きをした私を上司は最後まで認めませんでした。結果を出したのに、「それはいい加減な結果だ」とまで言っていました。
今、私はどちらかというと手技を教えることが多い立場になっています。
若い社員が「こんなやり方はどうですかね?」と提案してくる姿を、当時(数年前)の自分と重ねています。
「あ、それいいやん。ちょっとやってみようよ。」と言えてる自分、偉いぞ。