安定した日々の中にある鬱屈とした思い
在宅勤務が推奨される環境において、自宅およびその近辺で過ごす時間が増えました。
「通勤は時間を無駄に消費する、通勤電車では体力を消耗する」という意見に少しは同意できるのですが、たまに通勤してみると気分転換にもなって心地よかったりします。
基本的に家に引きこもることが好きなのですが、あまりに続くと飽きが来ます。
朝は子供たちを保育園に送って家で仕事。その後夕方以降は子供たちとご飯を食べて風呂⇒寝かしつけ、のサイクル。
子どもたちは本当にかわいいし癒しですが、子ども中心の生活リズムに窮屈さを感じないかと言われるとウソになります。
生活リズムは整っているし、お金も使わないので生活に不安もない。でも同時に張りのなさ、メリハリのなさを感じる自分もいます。
同僚と話すことも、他愛もない話をしに飲みに行くことも、きちんとした日常を送ること自体にある程度のストレスを感じている自分に気づいたのでした。
今朝タイムラインに表示されたポテトサラダの写真を見て、ふと「自分でも作ってみたいな」と思いました。
これまでの自分なら「美味しそう、食べたい」と感じることはあっても「作ってみたい」と思うことは無かったと思います。なんでだろう。
思わずその写真にコメントしてしまったりしたのですが、何はともあれ作ってみることに。
今までの自分にはない感覚
ポテトサラダを作ろうにも、ジャガイモもマヨネーズも足りなかったのでスーパーに買い出しに行くことに。
子どもが熱を出して家にいたので、妻に子守を頼んで1時間の休憩です。
私は買い物は面倒くさいと思う質なので、普段ならスーパーでの買い物は出来るだけ短時間で済ませようとします。
必要なものをリストアップして、余計なものには見向きもせず、最短距離で売り場を回って会計を済ませます。
しかし今日は、ふと目に映ったアサイージュースを手に取りました。200ミリリットルぐらいの紙パックのやつ。
普段なら目に映る事すらないのですが、気が付けば手に取っていました。結局それも買いました。アサイージュースなんて飲んだことないのに。なんでだろう。
そしてせっかく買ったのだから、家に帰る前にゆっくり飲んで帰ろうかなと公園に立ち寄ることにしました。
ベンチに腰を下ろして30分間、何をするでもなくぼーっとして、ジュースを飲んでから帰宅しました。
帰ってからは子供と遊びつつ、夕方にポテサラづくり。
ネットのレシピを参考にして、結構おいしくできました。きゅうりと玉ねぎだけのシンプルなレシピだったので、今後はゆで卵入れたりニンジン入れたりして見た目もキレイな感じにしていきたいなと。
自分の内なる声に耳を傾ける
突然ポテトサラダを作りたいと言ってみたり、ふと目に映ったアサイージュースを公園でぼーっと飲んでみたり。
今日の自分はこれまでと違う行動を取りっぱなしでした。これは何かの予兆?もしかして鬱か何か?と思ったりもしました。
しかしよくよく考えてみるとそうではなく、自分の内にある小さな声に耳を傾けただけなのかもしれないと今は考えています。
確かにそれは、日々の生活に対する飽きから生まれたものかもしれません。
今週は子供が体調不良でずっと家にいるので、自分だけの時間もなく、リラックスできていないことも原因となっているかもしれません。
いずれにせよ、自覚していないストレスを受けての変化、反応であったとすると、その声に従った自分の判断は正しかったのだと思います。
実際、今までと違う行動を取ることでリラックスでき、その後の仕事や家事にも気持ちを新たに取り掛かることが出来ました。
自分の行動は自分の意志によって決まっていると思っていましたが、今日は行動が先に来て後から気持ちが付いてくる感覚をはっきり得ました。その違和感に少し戸惑ったものの、新鮮な体験で面白かったです。
そして、今日はたまたまこのようなふとした違和感を大切にした行動を取ることが出来ましたが、内なる声そのものはこれまでも何度となくあったのでしょう。そしてそれをたくさん逃していたのだと思われます。
これからは多少意識して、自分のふとした気持ちの変化を大切にしていきたいと思いました。